インターネットが存在しなかった数十年前と異なり、現代の社会には物語が溢れている。
かつて図書や人の口からしか知り得なかった個々人の物語は、web・SNS・blogの発展と拡大により溢れかえってしまった。
今や手元のスマホを使えば、友人の動向から、ゲームで知った偉人の軌跡、好きな作家の新刊や日常にまで、即座に到達することができる。
ワインの世界に於いても、あらゆる生産者の物語が調べればすぐに発見できるようになっている。
ブルゴーニュの人口300人の村の生産者も、南アフリカの喜望峰の生産者も、カナダのヘリコプターでアクセスするノバスコシア州の生産者も、先人達の開拓のお陰ですぐに物語にアクセスすることができてしまう。
それなりに古くから、ストーリーを売りにするマーケティングが流行っている。
ストーリーテリングと呼ばれるそれは、幾つかの事実や物語をつなぎ合わせたり、時には創作をして、人間の感情系のハックを行う。
曰く、ロマネコンティから持ってきた苗木を使った、XXの弟子、知る人ぞ知るXX、ビオディナミがなんちゃら、XXX本しか造られない幻の。
少し調べるだけで、生産者が、ブドウが、土地が、評価が、レア度が、如何に素晴らしいか、どういった歴史を積み重ねてきているのか、そうした文言が押し寄せてくる。
全ての人に物語があるように、全てのワインにも物語がある。
それが事実なのか、誇張なのか、創作なのかはさておき、そうした時代になったのだ。
そうした時代において、かつて新しい喜びをもたらしてくれたストーリーテリングはもはや押し寄せる濁流になってしまった。
「乾杯のシャンパーニュは先日XXさんとご一緒して本当に素晴らしかったYYです。YYはZZ国、そうXXの発祥となったあの国の自然派の造り手で、アンフォラで、テロワールを表現した、甥のXXくんと畑仕事を」以下略。
あらゆるワインがこうして語られるようになった現在、そのストーリーにどの程度の意味があるのだろうか。
若しくは、我々はストーリーを飲みに来ているのか、味を飲みに来ているのか。
ここでラーメンハゲのいつもの画像!
残念ながら僕は味覚と、ストーリーや食べる相手が独立しているタチなので、楽しい食事会でも美味しくないものは美味しくないし、怒鳴られてても美味しいものは美味しい。
料理美味しく無いけど話楽しいな-、とか、相手は最悪だけど料理は美味しいからこれは良いな-、とか、そんな感じで生活している。
最高の仲間と飲めば何でも美味しい?
そんな訳あるか、誰と食べても高い支払をしていても、不味いものは不味い。
自分の味覚には誠実でありたい。
僕にとっては、味わいの良し悪しがまずあり、その後に良きにしろ悪きにしろ気になったものについてストーリーを摂取し、理解を深めるというのが望んでいるプロセスだ。
(事前にストーリーを知らされても基本的に味覚評価に影響しないが)
ワインは、物語自体の良さが問われる小説と異なり、味がまず第一にある存在であってほしい。
物語、ブランド、価格、希少性など、そうした装飾的なものを好む層もいるが、個人的には好奇心で探求することはあれど、優先度はかなり低い。
そうして、有名であれ無名であれ、味が良い物が良い、どう素晴らしいかと言う話をしていきたい。
ワインの盤上真理は味にある。